流れで覚える世界史の勉強法で「第一次世界大戦」を学ぶ! その0
<第一次世界大戦前の国境線を示した地図。『歴史群像』から引用。>
みなさんおはようございます、こんにちは? こんばんは!
今回は前回の記事で紹介した流れで覚える世界史の勉強法を実践し、第一次世界大戦を学びます!
前回の記事を知らない方はぜひ下から戻って確認してみてください!
また、今回の記事を書くに当たり参考にした文献はこちらです。
今回は第一次世界大戦の中心、同盟国側として戦争に乗り込んでいったドイツの人物を中心に世界大戦の流れを見ながら学んでいきます。
世界史はすべて「たった一人から始まった動きが広がったり広がらなかったりして、広がった時に世界に名を残す出来事が生じて、それの積み重なり」でできています。
その観点から、この時代で活躍した名もなき人物や有名な人物の気持ちなどを追いながら世界史を眺めていきましょう!(この記事の中で出てくるキャラクターの気持ちはすべて自分の妄想です笑 決してこの解釈だけが正しいわけではないし、たぶん普通に間違っているので、個々人ごとに気持ちの解釈はあっていいと思います)
では目次です。
【0A.時代背景】
名もなきナレーター「
やあ皆さん、こんにちは、名もなきナレーターだよー。
苗字は名藻無、名前が名礼太であって、名もなきナレーターという職業的なあれじゃないよ、立派な名前だからね!
第一次世界大戦が起きたころの事について少しだけ話しておこう。
当時はヨーロッパの各国が列強という名称を与えられた時代で、要するに彼らは並び立つ強者として非常にでしゃばっていた頃だったんだ。
世界各国に植民地とか作っちゃって「君ら文明遅れてるねww 俺たちが文明進めてやるよww」的なノリでアフリカとかにウェイウェイ進出していっている頃だったんだねー。
そういう時代だったから、列強たちは「どの列強が強いのかランキング」みたいなのにこだわっていた。
多くの列強と呼ばれていた国々は、自分自身が多くの植民地を支配する列強という立場にとどまりたがっていた。
そうしないとヨーロッパ内での地位が落ち込み、国際的な発言権が持てなくなり、ひいては植民地の面積の削減などの不都合に繋がってしまうからね。
また、当時の列強は植民地の配分やパワーバランスを保つために、国民などとは無関係に一つの会議室の中で閉じた外交で完結させる「秘密外交」と呼ばれる形式の外交を頻繁に行っていたんだ。
最近の「日米首脳会談」みたいなのが行われました、とテレビで報道されるのとは全く逆で、一部のトップ層が国民の知りもしないところで戦争後の土地の分配などを外交で決めていた時代だったわけだ。
さて、このような背景を踏まえたうえで「第一次世界大戦」を眺めてみよう」
【0B.ドイツの世界政策】
ヴィルヘルム2世「諸君、ごきげんよう。
この記事を読むために多大な時間を割いている事に敬意を表そう。
ちなみに上の銅像は一時期我が国の宰相として登用していたビスマルクであり、私ではない。
私の気高い姿や、私の幼少期からの歴史は以下のwikipediaを見て確認してほしい。
それにより私という人間の人格が少なからず浮かび上がってくるかもしれないからな。
私は幼少期より負けん気が強く、競争心が旺盛だった。
そのこともあってかな、父親が当時イギリスが採用していたような自由主義、すなわち「個人などが自由に判断することが可能であり、自己決定権がある」という思想は、まるで皇帝の権力を侮辱するようで、皇帝権力が敗北しているように感じられてどうしても受け入れる気にはならなかったな。
父は臆病であったのだろう。
己の決断に責任を持つことができない弱さを持った、皇帝としては失格の人材だったのではないか。
そのように私が考えていることを知ったからだろうか、祖父も同じように自由主義を否定する立場だったからずいぶんと可愛がってもらったものだ。
人は結局周りにいる人を見て、その人の思想に納得すればその思想に染まっていくし、それに納得できなければその思想とは逆の方向に行くものだろう。
私は帝国主義を貫き、敵を次々ひざまずけ、倒していく強いドイツを唱える人たちが祖父をはじめとして多くいて、私自身競争が好きで共感できたからこそ、そう考えるようになったのかもしれないな。
強さは正義だ。
弱さは悪だ。
こうやって考えれば、私が帝国主義を貫かざるを得なかったのは、とても当たり前の事だったんだ。
そして私が皇帝になったその時から、ドイツは世界の覇者となるための一歩を力強く歩み始めたのだ。
私の数々の英断をここに記すことができないのは遺憾極まりないが、しかしこの記事は諸君が第一次世界大戦を理解するための助けとなるべきものだ。
次の記事からいよいよ諸君は第一次世界大戦の流れを学んでいくこととなる」